強さの話
ふと、自分のことをタフだなぁと思った。
今までの人生を振り返ると、大人になる少し前からの殆どの期間を精神科の患者として生きている。病院も今通っているところで四軒目。最初は脳の回路がどうとかで、その次は食べ物を食べ過ぎては吐くようになった。今は自分が何か大きな病気を患っているのではないかという不安に襲われて、ドクターショッピングを繰り返している。精神疾患のデパートみたい。
むかし頭がとても忙しくなって、いよいよ心が壊れてしまったとき、広い病院にお世話になったことがある。そこでは一人で会話をするおじさんや、夜中に奇声を上げるおばさんや、ギターを弾いて歌うお兄さんがいた。それはそれはとてもユートピア。でも、お風呂には二日にいっぺんしか入れないし、毎日のお手洗いの回数も報告させられた。若い男性の看護師さんにそれを管理されていたのが心底嫌だった。僕でごめんねぇ。そう苦笑いでフォローされたときなんか、今ここで死んでやろうかと思った。死ぬために使えそうな道具は全部没収されちゃっているのにね。みんなが自由なその環境はなんとなく心地良い気もしたけれど、私の居ていい場所じゃないと思った。薬物はやっていないかとしつこく聞いてくる先生に早くここから出たいと言い続けたら、渋々出してくれた。その後また戻ることになったんだけれど。
職場で一人残業をしているときに新品のオルファで手首を切ってしまって、夜間救急で六針縫ったのが最近の自件。受付をしてくれた看護師さんの目が冷たかった。刃が錆びていなかったかを執拗に聞かれたので、新品で切っておいてラッキーだったんだろうと思った。年配の外科医が私の手首を縫いながら、先生ねぇ、精神は担当じゃないんだけどねぇ、こういう人たまに来るんだよ。なんでしちゃうの。興味があるんだよ。と言っていた。今思い出すとちょっと面白い。性癖なんだろうか。真冬だったからとにかく寒くてガタガタ震えていたら、いつの間にか鎮静剤を点滴されていて、私は落ち着いているから暖めてくれと思った。
そして、なぜか生きてしまっている。しかも、『頑張り屋の優等生』の印象操作に成功したのか、以前よりもかなり良い待遇で働かせてもらっている。おそらくこの先、あのユートピアで暮らすことも、看護師さんに排泄を管理されたり冷たい目線を向けられたりすることも、寒い処置室でガタガタ震えながら手首を切った理由を聞かれることも、ない。
果たして本当にこれでよかったのか。私自身はあのときと全く変わっていないのに。果たして私はどちら側の人間なのか。あのユートピアと今居る場所では、見える景色が180°違うのに。
「マジで、死ぬ死ぬ言ってる奴ほど死なねーから。」誰かに向けられたそんな嘲笑を聞くたびに、私はその辺のメンヘラとは違うと思っていた。なんなら憤っていた。事実、そういったアピールをしたことはないと思う。それは私の美学に反することというか、単純にカッコ悪い。
それでも、彼らの言葉が今頃になって正しいように思えてくる。
雨の話
雨が降っている。
私はしょぼくれている。
この雨は明日まで続くらしい。
ーーおい、生きてるかー?
数回一緒に寝た人からの、突然のメッセージだった。
どうしたのだと尋ねる私に、彼は続けた。
ーー雨だから、しょぼくれてないか確認。
落ち込むでも塞ぎ込むでもない、『しょぼくれる』という彼らしさに笑ってしまった。
ーー今、少し元気になった
ーー明日も雨だから、ちょいちょいは幸せに暮らすように
数回一緒に寝ただけなのに、彼は私のなんとなくをおおよそ理解していたように思う。
絵文字も顔文字もない、だけれど暖かいメッセージだった。
実家の荒れている私に、彼は度々部屋を貸してくれた。
彼の部屋はとても変わっていて、本来なら誰もがベッドを置くであろう場所には、大きな冷蔵庫が立っていた。
カーテンを開けると日差しが気持ちよくって、ベランダで吸う煙草が美味しかった。
私の人生の中で、もっとも静かで、健やかな時間。
私も何かお返しがしたいのだと言うと、少し悩んだ彼は、自分がゲームをするところを見ていてほしいと言った。
セックスをすることもあれば、しないこともあった。
一緒に料理をするのは、少しだけ緊張した。
海辺を散歩すると潮風にあてられた髪の毛がギシギシになっちゃって、でもそれもいいなと思った。
雨が降っている。
私は相変わらずしょぼくれている。
この雨は明日まで続くらしいけれど、ちょいちょいは幸せに暮らそうと思う。
夢の話
豚は自分の運命を選べなかった。生かされるか、殺されるか。後者ならば、この後。小さなトラックに箱詰めにされて、悲しい場所へと連れて行かれる。
母は豚の運命を決めなければならなかった。生かすか、殺すか。後者ならば、この後。整頓された豚の行列を、前へ前へと促す。背中やら腰やらを摩りながら。
軍手をした叔母が親指の付け根で涙を拭いながら、言う。
「私だって辛いのよ。」
父は何処へ行ったのだろう。
私は逃げた。混雑した定食屋へ入って、牛肉と玉ねぎの浮いた薄い色のスープを飲む。出汁が取れていないのか、ただの塩っぽい風味が口の中に広がる。
そこへ妹がやって来て、陽気な感じで隣に座った。何かを執拗に語りかけてくるが、私の耳には届いていない。自分の周りにあったグレーの薄い膜が、だんだんと分厚くなっていくのがわかる。
私はまたもや逃げた。伝票を掻っ攫って、二人分のスープのお代を払う。妹が追いかけてくる。
「付いてこないで。私は一人になりたいの。」
唯一の兄に助けを求めた。ええと、助けを求めるときは、どうするんだっけ。
「お兄ちゃん、助けて。」
痛みの話
痛みには慣れる。
やがて傷は塞がるし、腫れも引く。
知らないうちに熱を帯びて、次第に心地良ささえ感じてくる。
それが特定の、それも最高の誰かによって与えられたなら、どれだけいいかとも思う。
安らぎとは程遠いところにあるのにも関わらず、それは時にぴったりと、音も立てずに寄り添ってくる。
やがて、全身に流れる血液や、私を貫く骨になる。
子供は喚く。大人は耐える。
私は潤む。